僕が介護福祉の専門学校に通ったのは、今から16年以上も前になる。神戸にある兵庫介護福祉専門学校で、僕は5期生。高校を卒業してすぐの18歳の時だ。
(ちなみに廃校になるようで、来年の2月に神戸のホテルで盛大な集まりがある。僕はレクの先生であり、恩師でもある元学科長の先生を迎えに行って、一緒に過ごすことになっている。僕は、自分でも分かるが、周りから見れば、もしかしたら一風変わった人だったかも知れない。詳しく書くのは面倒だから控えるけども、おかげで先生とはとても親しくなれた。)
介護福祉の専門学校は2年制で、よく、「卒業すれば貰える」と安易に資格を取ったと思われがちなのである。勉強したことのある人は知っているだろうが、科目数も決して少なくない。毎日、介護系の専門科目で時間割はビッシリ。生徒の年齢層は広く、親の世代の方も居た。
学校によってはカンニング黙認のとこもあったと当時聞いていたが、僕の通っていた学校はまともで、留年していた先輩も何人もいたし、テスト中にカンニングが見つかって教室を出され、結局辞めていった先輩もいた。同級生でも、入学した時と比べると、何人も辞めていった。適正に問題があり退学を勧められた者もいた。
介護福祉士という資格は、世間が思っているほど、簡単に取れるものではない。資格の取得方法は他にもあるが、どのような過程で取得しても、その資格自体に違いはない。
同じ専門学校に通っていた生徒同士を比べたとしても、本当にさまざまだと思う。日本国内に現存する介護福祉士もピンキリだと、はっきりと言える。資格とは、一定の水準の知識や技術(という程でもないが)を備えている証明書であって、それだけのものだとも思っているが、では、その一定の水準が高いか低いか、となると、残念ながら決して高くないと思っている。それが、日本の介護福祉士のレベルだと思っている。
とはいっても、資格が仕事をする訳ではない。学校によっても、先生によっても、何を大切と考え、それを生徒に教えるかは、またそれぞれだ。居宅サービスと施設サービスに求められるモノも随分と違うし、僕はホームヘルパーとしては使い物にならないと思う。冷蔵庫を開けて、その場で間に合わせの昼食を作るなど出来ないからだ。だから、出来る人は凄いと思う。
「介護」と一言で言ってもとても範囲が広く、それぞれの介護士が持つ介護観も違い、介護観を持っていない者さえも居る。何を大切に考えるかが違う。だからバラつきが大きい。だから、まだまだ認められるような資格でもない。それは資格創設され、かなりの年月を経た今でも変わっていない。本当に成長のない資格だと思うし、情けないとさえ思っている。
( ´_ゝ`)
我々は、業務をしているんですか?
( ´_ゝ`)
それとも、介護をしているんですか?
業務をしている、と思った人は、職員都合の考えを優先していると思います。
介護をしている、と思った人は、対象者さんのことも考えて行動していると思う。
たくさん動く人が、良い介護士とは言えないんです。
たくさんおむつ交換を出来る人が望まれている訳ではないんです。
早く済ませられる事を望んでいる要介護者の人なんて、居るはずがないんです。
専門学校の時に思っていたことは、「人間は必ず怠けたがる。自分に負けてはいけない。」ということ。介護という仕事は、自分との闘いだと思っているし、周りに流される介護人には絶対にならまいと誓って、勉強してきたし、それは本当に間違っていなかったと今でも思っている。実習先でも、正しいと思うことは主張してきたし、職員さんがおかしいと感じた時は言ってきた。
自分の介護観を確立させる事だけが、専門学校に通っていた時に持っていた唯一の目的でした。適当にやってきた訳ではないんです。だから、実際に介護の仕事をしている今、適当にやってしまう事は、自分に負けることなんです。周りの職員に流されて、介護の仕事をするのは絶対に嫌なんですよ。
人は、自分のやっている事を肯定するために、色んな理由付けを探すでしょう。
その本当の理由に向き合える人って、多くないですよね。
前のフロアでは2年目の半年間で、4回、頭に来ました。
今のフロアに来て3年が経とうとしています。今のところ、あの時のように怒ることなく経過しています。それには理由がありますが、別に怒りたい訳じゃないし、笑って仕事をしたいので、「邪魔」さえされなければ、それでいいのです。4度怒った時は“邪魔”されたからです。
後になってから、「そこまで考えていませんでした。」というのは、感心しません。こっちは「そこまで考えていた」んですから、誰であっても事前に考えれていた筈だからです。
出来る範囲を知り、その中で出来る限り発揮する、それが議論で留意されるべき点だと思います。万全な環境でない限り、どこかで妥協しなくてはいけない部分はあります。大切なのは、“どこに拘るか”ではないでしょうか。
人により、その拘る部分と妥協する部分が違うのであれば、その大きな理由の一つに、教育があると考えています。職員にバラつきがあるのであれば、そこは教育の出来ない施設だということです。
体裁のいいことは誰にでも言えるでしょう。
でも、少なくとも僕は実践しているつもりです。
いつも言いますが、職員都合で物事を考えるのは、本当に辞めて貰いたいんです。
突き進めるのであれば、それはそれで別に構いませんが、相当の覚悟を持って貫いて貰いたいと思います。
僕は、そうしていますから。
( ´,_ゝ`)今日は、危なかったです。
(ちなみに廃校になるようで、来年の2月に神戸のホテルで盛大な集まりがある。僕はレクの先生であり、恩師でもある元学科長の先生を迎えに行って、一緒に過ごすことになっている。僕は、自分でも分かるが、周りから見れば、もしかしたら一風変わった人だったかも知れない。詳しく書くのは面倒だから控えるけども、おかげで先生とはとても親しくなれた。)
介護福祉の専門学校は2年制で、よく、「卒業すれば貰える」と安易に資格を取ったと思われがちなのである。勉強したことのある人は知っているだろうが、科目数も決して少なくない。毎日、介護系の専門科目で時間割はビッシリ。生徒の年齢層は広く、親の世代の方も居た。
学校によってはカンニング黙認のとこもあったと当時聞いていたが、僕の通っていた学校はまともで、留年していた先輩も何人もいたし、テスト中にカンニングが見つかって教室を出され、結局辞めていった先輩もいた。同級生でも、入学した時と比べると、何人も辞めていった。適正に問題があり退学を勧められた者もいた。
介護福祉士という資格は、世間が思っているほど、簡単に取れるものではない。資格の取得方法は他にもあるが、どのような過程で取得しても、その資格自体に違いはない。
同じ専門学校に通っていた生徒同士を比べたとしても、本当にさまざまだと思う。日本国内に現存する介護福祉士もピンキリだと、はっきりと言える。資格とは、一定の水準の知識や技術(という程でもないが)を備えている証明書であって、それだけのものだとも思っているが、では、その一定の水準が高いか低いか、となると、残念ながら決して高くないと思っている。それが、日本の介護福祉士のレベルだと思っている。
とはいっても、資格が仕事をする訳ではない。学校によっても、先生によっても、何を大切と考え、それを生徒に教えるかは、またそれぞれだ。居宅サービスと施設サービスに求められるモノも随分と違うし、僕はホームヘルパーとしては使い物にならないと思う。冷蔵庫を開けて、その場で間に合わせの昼食を作るなど出来ないからだ。だから、出来る人は凄いと思う。
「介護」と一言で言ってもとても範囲が広く、それぞれの介護士が持つ介護観も違い、介護観を持っていない者さえも居る。何を大切に考えるかが違う。だからバラつきが大きい。だから、まだまだ認められるような資格でもない。それは資格創設され、かなりの年月を経た今でも変わっていない。本当に成長のない資格だと思うし、情けないとさえ思っている。
( ´_ゝ`)
我々は、業務をしているんですか?
( ´_ゝ`)
それとも、介護をしているんですか?
業務をしている、と思った人は、職員都合の考えを優先していると思います。
介護をしている、と思った人は、対象者さんのことも考えて行動していると思う。
たくさん動く人が、良い介護士とは言えないんです。
たくさんおむつ交換を出来る人が望まれている訳ではないんです。
早く済ませられる事を望んでいる要介護者の人なんて、居るはずがないんです。
専門学校の時に思っていたことは、「人間は必ず怠けたがる。自分に負けてはいけない。」ということ。介護という仕事は、自分との闘いだと思っているし、周りに流される介護人には絶対にならまいと誓って、勉強してきたし、それは本当に間違っていなかったと今でも思っている。実習先でも、正しいと思うことは主張してきたし、職員さんがおかしいと感じた時は言ってきた。
自分の介護観を確立させる事だけが、専門学校に通っていた時に持っていた唯一の目的でした。適当にやってきた訳ではないんです。だから、実際に介護の仕事をしている今、適当にやってしまう事は、自分に負けることなんです。周りの職員に流されて、介護の仕事をするのは絶対に嫌なんですよ。
人は、自分のやっている事を肯定するために、色んな理由付けを探すでしょう。
その本当の理由に向き合える人って、多くないですよね。
前のフロアでは2年目の半年間で、4回、頭に来ました。
今のフロアに来て3年が経とうとしています。今のところ、あの時のように怒ることなく経過しています。それには理由がありますが、別に怒りたい訳じゃないし、笑って仕事をしたいので、「邪魔」さえされなければ、それでいいのです。4度怒った時は“邪魔”されたからです。
後になってから、「そこまで考えていませんでした。」というのは、感心しません。こっちは「そこまで考えていた」んですから、誰であっても事前に考えれていた筈だからです。
出来る範囲を知り、その中で出来る限り発揮する、それが議論で留意されるべき点だと思います。万全な環境でない限り、どこかで妥協しなくてはいけない部分はあります。大切なのは、“どこに拘るか”ではないでしょうか。
人により、その拘る部分と妥協する部分が違うのであれば、その大きな理由の一つに、教育があると考えています。職員にバラつきがあるのであれば、そこは教育の出来ない施設だということです。
体裁のいいことは誰にでも言えるでしょう。
でも、少なくとも僕は実践しているつもりです。
いつも言いますが、職員都合で物事を考えるのは、本当に辞めて貰いたいんです。
突き進めるのであれば、それはそれで別に構いませんが、相当の覚悟を持って貫いて貰いたいと思います。
僕は、そうしていますから。
( ´,_ゝ`)今日は、危なかったです。
わたしの場合、わたしの資格での職域は多方面にわたります。
資格を持っている人なら何にでも精通しているってわけではないです。
考え方もエビデンスが重ねられ変わっていくこともあり、日々研鑽を重ねていくのが必要だと思っています。
特に資格を取ったばかりの人は、そういう気持ちをそこで持つ必要性を感じて持ち続けていけるかどうか・・・それが大切に思います。
うんぼぼさんから教えてもらった「自己覚知」でわたしもいろいろ考えています。